こちらの記事は、下記記事をまとめて転載した記事です。
・自分の希少性が高まるコミュニティを選ぶと役割が生まれやすい
・ちいさな場のつながりやすさ
・『問い』が似ている人と繋がろう
・出会いの暴力性
著者のWebメディアからの転載記事です。
(著者:黒田悠介さんからの承諾はいただいております)
自分の希少性が高まるコミュニティを選ぶと役割が生まれやすい
自分と職種やスキル、属性が似ている人が集まるコミュニティに入りたくなるのは自然なことだけど、逆に自分と全然違う人が集まっているコミュニティのほうが希少性が高くて役割が得やすくなります。
コミュニティでの役割があれば、そこでの信頼も蓄積しやすくなります。そして信頼によって更につながりや実践の機会も得やすくなり、それによってまた信頼が蓄積していくというポジティブなループがまわっていきます。
例えば、デザイナーがデザイナーのコミュニティに入るよりも、エンジニアばかりのコミュニティでそのデザインスキルを発揮するほうが希少価値があって、そのコミュニティにおけるデザインのニーズを総取りできたり。
また例えば、平均年齢が高めなコミュニティにあえて若い人が入ることで、「今の若い人たちはどんなことを考えているのか教えて」といった注目が集まりやすくなったり。
もちろん、似ている人から学びたい、繋がりたい、というだけならいいんだけど、コミュニティに対して価値を提供する側に回ろうとするなら、逆張りをするのが良いんじゃないかな、と思うのです。
そうやって役割を持つことは、コミュニティを居場所にする分かりやすい方法の1つです。他にもコミュニティを居場所にする方法はいろいろありそうですが、それはまた今度。
ちいさな場のつながりやすさ
場にはいろんな目的があり、それに応じて適切なサイズがあります。
多くの人に何かをお披露目したり、大規模なお金を動かすこと必要があったりすれば、大人数のほうがいいでしょう。
しかし、もしその場で「新しいつながり」を生み出したいのなら、大人数よりも少人数のほうが効果的です。
動員される人数が同じなら、100人のイベントを1回開催するよりも、10人のイベントを10回開催したほうがいい。
なぜでしょうか?
100人の場で私たちが考えることをイメージしてみてください。それは「あの人来てないかな」とか「知り合いいないかな?」だったりしませんか?
かく言うわたしもその一人です。
では、10人の場ではどうでしょうか?選り好みをできるほどの人数ではありません。知り合いではなくても、共通点はすくなくても、コミュニケーションを取らないわけにはいきません。
100人の場でも、近くに座った人を3人組にして自己紹介をしてもらう時間を取ったりするだけでも意味があります。
そういったちいさな場で生まれるつながりだからこそ、意外な共通点があとから見つかったり、異なるスキルや経験の掛け合わせが生まれやすかったりします。
このように、新しく多様なつながりを生むのはちいさな場です。もしあなたがつながりを生むために場を開く人なら、そのサイズに意識を向けるといいんじゃないかなと思うのです。
『問い』が似ている人と繋がろう
どんな人と仕事をするか。これは「働き方」や「専門性」と同じくらい、人生に大きな影響を与える仕事の側面です。
いろいろな選択基準があります。たとえば、「仕事のやり方が近くい人」と仕事をすれば、阿吽の呼吸でプロジェクトを進められるでしょう。「仕事でやっている事が近い人」と仕事をすれば、共通言語も多くコミュニケーションコストが低くなります。
このように、やり方(How)とやっている事(What)の類似性で一緒に仕事をする人を選ぶのも良い。
しかし、私がフリーランスとして様々な人と仕事をするなかで感じたのは、
「問い(Why)が似ている人と仕事をするのが最強」
という感覚です。
「問い」を軸に新しい繋がりが生まれていくのを感じます。
HowやWhatでの繋がりは狭い
Whyが似ている人を探していると、人との繋がりの多様性が高まります。逆に、HowやWhatが似ている人と仕事をしていると、その領域の外に繋がりを増やすのは難しい。
私はデザイナーやエンジニアのミートアップ、起業家コミュニティなどの色々な集まりに顔を出しますが、そういった場ではHowやWhatが同じ人達の出会いが生まれています。
そういった場でよく見かける光景があります。初対面の人同士がFacebookで共通の友達が多いのを見て「世間は狭いですねえ」と言っているのです。
それは当たり前で、HowやWhatをテーマにした場は狭い世間になるようにできているのです。共通の友達がいないような人は来ない。ここでの出会いは拡張性がありません。
『問い』があれば領域を横断して繋がれる
一方でWhyを同じくする人たちが集まるコミュニティには、様々な領域から人が集まってきます。そういったコミュニティに3つほど所属していますが、どのコミュニティも刺激的です。
そういったコミュニティでの出会いが仕事に繋がると、これもまた楽しいものになります。業界や専門性を超えて同じ「問い」に向き合うとき、コラボレーションが最も起きやすいのだと感じます。
たとえば、私は「働き方の多様性を増やすにはどうしたら良いか?」という問いで動いています。その問いを同じくする人たちと、4つのプロジェクトに並行して参画しており、そこでは全員が異なる専門性や経験、ネットワークを活かして活躍しています。
具体的には以下のプロジェクトに参画しています。今後、ここでお伝えしていけるタイミングがあれば良いなあと思っています。
- ワークとライフを分けない「自然体」の働き方の普及
- フリーランスの集合天才による課題解決
- オンラインコミュニティによる事業創造
- 地域と連携した働き方支援
- だれもが自分らしく働ける社会を創る
出会いの暴力性
「あの人との出会いで人生が180°変わった!」みたいな劇的な変化のほうが耳目を集めやすい。でも、実際に私たちが経験しているのは日々のちいさな「1°の変化」だと思う。
そのちいさな変化とささやかな日々の積み重ねが、あとで振り返ってみたときに大きな違いになって現れるんじゃないか。
わたしはそういう、何気ない出会いのなかに、お互いの人生を変えてしまうかもしれない暴力性があることに関心があります。
ここでいう暴力とは、合理性を欠いた強制力のことです。
わたしたちは「1°の変化」を強制されているとは思っていませんが、それは気がついていないだけなんじゃないでしょうか。
もちろん、わたしたちは出会いそのものやその暴力性によって傷ついたりすることもあるけど、そのおかげで人の多様性を体感し社会の輪郭を掴むことができる。
それに、その暴力性の刺激のなかに、生きる喜びや生の実感みたいなものも紛れ込んでいる。
わたし自身も誰かの人生を意図せず変えてしまったり、誰かに人生を変えられてしまったりしているのでしょう。
それなら、みなさんもわたしも、今の自分は過去に出会った全ての他者による合作のようなものだなあ、と思います。
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