著者のWebメディアからの転載記事です。
(著者:黒田悠介さんからの承諾はいただいております)
概要
前職でキャリアコンサルタントをしていたときから「何者かになりたい」という言葉を何度となく聞いてきた。
何者かになりたいと思ったことのない私は共感できずに「そういうふうに思う人もいるんだな」と流して生きてきた。
でも、以前にも増して、何者かになりたいワナビーなことばを聞くようになり、そろそろちゃんと向き合ってみようと思ってこの文章を書き始めた。
なぜ、何者かになりたいのか?書きながら自分なりに考えて、それから色んな人と話をしてみたいと思う。だから、的はずれな部分は指摘してほしい。そこから対話が生まれたらいいなと思う。
「ジャスティン・ビーバーになりたい」との違い
「何物かになりたい」は「ジャスティン・ビーバーになりたい」とは違うし、子どもが夢を語るときの「Youtuberになりたい」とも違う。
※最近では、なりたい職業ランキングの上位に「YouTuber」や「プロゲーマー」が入ってきていて、めっちゃいいなと思っています。
明確な名詞じゃなくて、あくまで曖昧な「何者か」なんだよなあ。
だから、「何物かになりたい」と言うとき、なりたいものから「引力」を感じているわけじゃなくて、現状からの「斥力」を感じてるのかもしれない。
「何者かになりたい」=「今の自分ではいけない」?
その斥力には「今の自分ではいけない」という自己否定の雰囲気もある。
では、何が「いけない」んだろう?
「いけない」を言い換えてみたい。すると、今の自分では「認められない」「愛されない」「生きていけない」「達成できない」「つまらない」「満たされない」などが思い浮かぶ。
人によっていろんなカタチの「今の自分ではいけない」があり得そうだ。
このような自己否定は劣等感と言い換えてもいいかもしれない。
2つの劣等感のタイプ
ちなみに、劣等感は2つのタイプがあると思う。
1つは指向性劣等感。これは具体的な比較対象があり、それよりも自分が劣っているという感覚。その比較対象は他人かもしれないし、自分の理想像かもしれない。
もう1つは拡散性劣等感。これは具体的な比較対象がない、漠然とした劣等感。比較対象がないため、明確な指向性はない。
どちらの劣等感も、うまくアクションにつなげていくことができれば内燃機関として役に立つと思う。子どもがいろんなことを試すにはまさに、劣等感のためだ。大人になっても劣等感をうまく使いこなせばいい。
ただし、気をつけたいポイントもある。指向性劣等感は比較対象があり、アクションが明確になりやすい。なりたいものとの差分を埋めればいい。でも、拡散性劣等感の場合、全方向にアクションの可能性がある。だから、迷走することにもつながりかねない。
拡散性劣等感は扱いに注意が必要なのかも、とも思う。
拡散性劣等感にはいいところもある
「何者かになりたい」のような自己否定型の拡散性劣等感は迷走を生むかもしれない、と書いた。でも、逆にいえば、それは未来のあらゆる可能性に開かれた劣等感だとも言える。
指向性が強すぎて選択の幅を狭めたり、こだわりすぎて挫折したりするよりは、むしろ柔軟で健やかなのかもしれない。指向性劣等感は局所解しか導かない可能性がある。
だとしたら、「何者かになりたい」というのもいいかもしれない。
人生には「探索」と「深化」のタイミングがあると思う。拡散性劣等感で探索し、その後で指向性劣等感で深化する。そんな順番や循環でアクションすることで、いつの間にか「何者かになりたい」という感覚も消えているかもしれない。
青春の長期化
「何者かになりたい」は青春だ。そして、わたしたちは長寿化と同時に青春の長期化も経験しているんだろう。
「何者かになりたい」という感覚はまだわからないけど、そんな青春の長期化についてはなんだか良いことのような気がする。迷走という名の探索を楽しもうじゃないか、という気持ちになってきた。