著者のWebメディアからの転載記事です。
(著者:すだあゆみさんからの承諾はいただいております)
概要
「好きなことを仕事にできたら…」って、いいますよね。
好きなことをしていると時間の流れが早い。そして、ふとしたときに顔をあげて「ほぅ……」と充実感に包まれます。興味の持てることがあるって、いいですよね。
ただ、思うのです。
そこまで興味のあることって、私にはないなぁ……と。
「夢中になってて、気づいたら3時間もたっててさ!」みたいなことがないのです。
日々の中にあふれる「少しの興味」
「え、なにそれ!気になる!」くらいの興味は日々あります。
お仕事でもプライベートでも「興味を持つ」のは大事で「何かへの興味」を失わないようにと日頃から意識している人もいるかと思います。
気になったことはすぐに調べたり、人に聞いたりして、納得したり、なんか余計に分からなくなったり。それでもなんとなく「そうなんだ」となって、そこで終わりになる感じ。
本当の興味って、なんなのでしょうか。
思い込みと劣等感
私は「このまま何にも興味を持てずに生きていくのかな」と揺れる時期があります。急に「肉が食べたい!」と思うことがありますが、そのくらいの頻度と同じくらい定期的に思います。
どうしてなんだろう、とよくよく考えてみると
「興味の持てることがないと、人生はつまらなくなる」
という思い込みがあるのかも、と思いました。
「好きなことをやれ」という言葉も「好きなことをしたほうが、人生は良いのだぞ」というイメージと結びつきます。
そりゃあ、できるなら、自分も好きなことをやりたい。
気づいたら「好きなことだけで1日が終わってた……」みたいな経験をしてみたい。
でも、好きなことが見つからない。
好きなこと見つけなきゃ…… と浮かない顔で、こう思ってしまうんです。
「興味の持てるものがない自分って、つまらない」
「分かった気」をやめてみる
「興味など、なくてもいい」そう理解しても、不完全さは残ります。
「好き」はたくさんあれば、やっぱり楽しい。自分が楽しいと、人にやさしくなれる。前向きな気持ちになれる。だから、打ち込める何かを探したい。でもないのです。興味の持てるものが。
じゃあ、どうしよう。
ということで考えました。こんなのはいかがでしょう。
「分かろうとしない」
いつも少しの興味から、知ろうとしたことを「分かった気」になって終わらせていたけれど「分からない」ままでいたらいいんじゃないかと。
いくら深く突き詰めても、すべてのことは毎日少しずつ変化しているはず。
ということは、どんなときも完全じゃない。
どんなときも「すべてを完全に知ることはできない」のではないでしょうか。
それなら「分からない」と同じとみなしてしまおう。
「分からない」といいながら、何か調べたり、人に聞いたり、考えたりしているうちに「もっと分かりたい」に出会うかもしれない。
そのときにはじめて興味が生まれて、新しい自分になるような気がします。
出会って深めても「分からない」は、ずっと続く。
「分からない」といいながら、笑ってる自分がそこにいればいいんじゃないかと思います。