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在宅性存在論的不安と名付けた、わたしの不安とその対処法

著者のWebメディアからの転載記事です。
(著者:黒田悠介さんからの承諾はいただいております)

概要

なんとなく不安だな、というときに、わたしはそれをじっくりと味わいながら名前をつけることにしています。

不安を否定せず、むしろ積極的に受け入れて、そのうえで名付けて客体化して眺める。そうすると不思議と可愛く思えてくるから不思議です。

そんなふうににして、今わたしが感じている不安を「在宅性存在論的不安」と名付けました。もしかしたら同じタイプの不安を抱えている人がいるかもしれないので、この名付けの背景を少し書いておきます。

存在論的不安とは

そもそも存在論的不安とは、存在論的安心が脅かされている心理状態です。そして、存在論的安心とは(わたしの誤読の可能性もある解釈では)社会がたしかに存在していて、そこに自分が立脚している確信のことです。

ちなみに存在論的安心という概念自体はイギリスの社会学者のアンソニー・キデンズさんが提唱した概念です。

わたしは、この存在論的安心が在宅を続けることで脅かされていると感じています。なんとなく社会から遊離したようなフワフワした感じを伴う不安。その不安を「在宅性存在論的不安」と名付けたのですw

外出自粛の要請もあり、一日中家にいる人もいるでしょう。そのときにふと社会とのつながりが希薄になったような感覚があれば、それは「在宅性存在論的不安」かもしれません。

では、誰もが陥る可能性のあるこの不安に対して、わたしたちはどんな対処ができるでしょうか?

以下に自分なりに感じていることを書いてみました。同じような不安を抱える誰かに届いて役に立てば嬉しいです。

在宅性存在論的不安への対処

カーテンを開ける。

社会がそこにあり、継続していることを視覚で感じとる。ニュースでは見かけたことがあるけど、ベランダから声を出してご近所さんと話すのも良い。日本人向きのやり方ではないかもしれないw

料理を自分で作る。

料理の過程で生産者とのつながりを感じたり、フライパンの熱や重み、野菜を切る手応えを感じて身体性を取り戻したりできる。自分以外のだれかのために料理を作るのもいいと思う。

オンラインで雑談する。

対面で話すときにの安心感や充足感には程遠いかもしれないけど、雑談は自分の存在や他者とのつながりを再確認できる。特に、誰かを思いやることで、自分が社会的存在であることを感じられる。

誰かを支援する。

経済的な停滞もあり、不安を抱えている人も多い。そういった知人に共感すると自分にも不安が移るので、それよりも「自分に何ができるか」を考えて、できれば実行するといい。前向きな力が湧いてくる。